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実録㉞~「いい学校いい会社」信仰の人が苦手な数秘33~

《実録》これが数秘33の生き方だ

数秘33の笹子です。

1月も中旬を過ぎ受験シーズン真っただ中ですね。

現在中学、高校、大学を受験中のお子さんたちの中には数秘33の方はいらっしゃらないと思いますので、これを読んでいる方はそんな受験生を持つ親御さんや昔受験を経験された方になると思います。

(2000年代に入り、計算上数秘33は誕生していないので)

自分が高校や大学を受験したのは1990年代で、まだまだ「いい学校いい会社」信仰が大手をふるっている時代でした。

あの頃は、なにも疑わずに本当の勉強の楽しさも知らずに、ただ志望校目指して勉強していました。

しかし、自分が社会人となり更には親となり「いい学校いい会社」信仰の人に対し、やけにザワザワしたりむかむかする自分がいることに気が付きました。

今回はそんなことについて綴っていこうと思います。

世間の「いい学校いい会社」信仰の定義

私目線で恐縮ですが、世間の考える「いい学校いい会社」をまずは定義しておきます。

「いい学校・・・誰もが「えっ?!あの偏差値の高いあの有名なあの学校なの!?凄いなぁ」という感想を持つ学校。「何を学んでいるか」は関係ない。学校名だけ聞いて「凄い」という感想のみで終わる。

「いい会社」・・・誰もが「えっ?!あの有名な一流企業なの!?凄いなぁ」という感想を持つ会社。「どんな業務を担っているか」は関係ない。会社名だけ聞いて「凄い」という感想のみで終わる。

どちらにも共通するのは、「凄いなぁ・・・」以上の突っ込んだ感想が湧いてこない。そこで何を学んでいるかやどんな業務を担っているかはどうでもいい。

みんなが知っている+入るのが難しいよい学校、良い会社。

「いい学校」めざして塾に行くことに違和感・・・

自分が初めて受験生になったのは高校受験の中3のころ。

あの頃は、漠然と「塾に行くっておかしくない?」

と思っていました。

義務教育として通っている中学校に、職業として「先生」という立場の人がいるのに。

その中で身につく学力で行ける高校でいいじゃないか・・・と。

さらにお金を払って塾に行くって、変じゃないか、無駄なのではないか・・・と。

参考書替わりに「進研ゼミ」はやらせてもらっていました。

それで授業を理解することに事足りている自分がいました。

実際、市内の進学校に行ける偏差値はこの自宅学習+進研ゼミで保てていたので

「塾に行ってまで・・・」

という気持ちでした。

また、塾というのは他校の中学生も集まる同年代の社交場なのではないか・・・

という疑いもあり尚更、煩わしい人間関係に時間を取られるくらいなら自宅で一人で勉強したほうが集中できるに違いないという思いもありました。

しかし高校入学後、この程度の実力ではみっちり塾に通っていた秀才たちに、まったく太刀打ちできないと思い知らされました。

就職試験で痛感。有名大学しか取らない有名企業

高校卒業後は、地方の大学に進学しました。

当時は「公務員を志望して、その対策をしている」という友達が全く理解できませんでした。

今ならその抜群の安定感に羨ましさしかありませんが、当時の若い自分は

大海原に泳ぎだすときに「安定」はありえない。

自分何をやりたいか」だろ!?

と冷めた目で見ていたものです。

私には当時、どうしても入社したい会社がありました。

小さなころから大好きだったものを扱っている会社で、大学生になってからはそれなりにその会社の関係者とコンタクトを取って情報収集をしたり、その会社で働く自分を想像してワクワクしたりもしていました。

そして臨んだ入社試験。

1次面接は5名ほどの学生と3名の会社の担当者により集団面接が行われました。

私以外はみな東京の誰でも知っている難関大学の学生でした。

そこで「あ、場違いだ自分」と気づいたのでした。

皆ものすごい強固なブランドをすでに持ち合わせている。

さらにそこにはガツガツとした学生時代の輝かしい体験談。

このメンツでどう考えても、この会社を一番愛しているのは自分。

しかし、そんな熱い感情なんか吹いて飛ぶような感覚でした。

結果もあっさり選考から落ちました。

あれから20年以上経ちましたが、学歴社会はある一定の有名企業では、まだまだ根強くあるのではないかと思います。

子育てで立ちはだかる「いい学校」プレッシャー

いわゆる「いい学校いい会社ルート」から外れた私も親となりました。

そんな私の前に立ちはだかったのは「いい学校いい会社」信仰にどっぷり漬かっているお姑さん。

SMAPの名曲「世界に一つだけの花」の歌詞に

ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン

という有名なフレーズがあります。

きっとこの歌を聞いたお姑さんはこう言うに違いありません。

「は?ナンバーワンじゃなきゃ意味ないでしょ」と笑。

強烈に英才教育を推してくるお姑さんに反抗するような形で

「のびのび教育でいいのだ!」

と意地を張ってきた子育てでした。

しかし、内心は底辺の学力では親としてツライ。

しかし、のびのびさせたい。

このはざまでとても悩むのでした。

なにより、この時代において意味もなく世間体を気にして「勉強しろ」と言っている自分は、強烈にダサいという感覚がありました。

結果的に中途半端な私の教育方針の中で育った子供たちは、成績もふつう。順位も真ん中あたりをずっと彷徨っていました。

私の考える「いい学校いい会社」の定義

自分自身や子供に望むのは偏差値の高さや有名企業に就職することではなく

「大好きなことを極めて生活できる人」。

そのために、偏差値の高い学校で学ぶことや有名企業に就職することが必須になるのならそれでよいと思います。

要は視点が他者目線ではなく、自分目線でそれが必要かどうか。

ここで私の考える「いい学校いい会社」を定義してみたいと思います。

いい学校・・・本当にやりたいことや興味のあることをゴールにして、それに付随することを学んでいける。そこで何を学んでいるの?と問われたら明確に「これを知るために今は○○を学んでいます」と答えられる。

いい会社・・・その人の特性を引き出せる。労働時間や働く場所を画一的に管理して業務を与えるのではなく、一人一人の特性がどのようにその会社や社会に貢献できるのかを追求した結果、繁栄していく 。

2024年の現代においては、こんな会社も増えているような気がします。

「いい学校いい会社」信仰の人を私が苦手な理由は、肩書や出身学校だけで簡単に人を評価しようとするその精神なんだと思います。

特に数秘33の特性を持つ私自身の人生も職歴も子育ても、その人たちの大好きな王道ルートから外れまくっているので、まったく理解できない人種と思われていることと思います。

テレフォン人生相談でお馴染みの社会学者で心理学者である加藤 諦三先生風に言えば

みかんで生まれたのに「リンゴとして生きろ」

と言われているような感覚になるのです。

まとめ

「いい学校いい会社」信仰の人に昔からなんとなくザワザワする自分がいました。

実際、自分も受験生だったころはそれなりに志望校目指してがんばっていました。

しかし、いざ入学して入った高校や大学で習ったことで今の生活に役立っているものが一つもありません。(あくまで私の例です)

ただでさえその他大勢の人からはみだしがちな数秘33にとって、この画一的な世間体重視の「いい学校いい会社」信仰の人にはとても疎外感を感じてしまうのです。

アラフォー、アラフィフ世代の数秘33は、世代的にこのルートに乗って生きる事を目指さざるを得なかった方が多いのではないでしょうか。

そして自身の子育てでもそのルートに乗せることに違和感を持ってはいませんか?

今でもこの時期になると、
「本当にその学校に行きたいのかい?行くことがゴールになっていないかい?」
「本当にその会社に入社したいのかい?それは世間体や見栄ではないのかい?」

と本当の望みを見ないようにしているのでは?と思ってしまう自分がいます。

「いい学校いい会社」信仰の人には負け犬の遠吠えと思われるでしょうが…。

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