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実録㊾~親に甘えられない数秘33~

《実録》これが数秘33の生き方だ

こんにちは。
数秘33の笹子です。

これを読んでいる数秘33さんは、すでに成人されている方ばかりなので(2000年に入って数秘33は生まれていないので)、両親に甘えるという時期はとっくに過ぎているかと思います。

そんな大人の数秘33さんに質問です。

両親に対して喜怒哀楽をありのままにさらけ出せていましたか?

両親に金銭的にも、精神的にも頼ることができていましたか?

私は両親に甘えることがとても苦手な子供でしたし、現在もどこかしっかり者の余所行きの自分を演じてしまいます。

そんなことについて、今回は綴っていきたいと思います。

数秘33の家庭環境

私はアラフィフなので両親は現在、後期高齢者です。

離れて暮らし、長い月日が経ちました。


幼少期から、親との仲が良いとか悪いとか、家族の絆とかそういう特別な感情がないまま、今に至ります。

私と両親の関係は、とてもドライなのです。

周りを見ても、親との関係がこんなにあっさりしている友達は誰もいませんでした。

よく数秘33は「生まれ育った環境が厳しい」と言われます。

私の場合は厳しさは感じませんが、感情的な結びつきがとても薄いと感じて育ちました。

両親の前で見せる姿は、たくましくしっかり者の自分

あくまで私の考えですが、親に甘えるというのは

相手の機嫌を損ねるかもしれないと心配することなく

ありのままの喜怒哀楽さらけ出せる」

「遠慮なく頼んだり、要求ができる」

ことだと感じます。

私の場合、物心ついたころからずっとそれができていません。

親に対しては、手を煩わせたくない、心配かけたくないという遠慮のような気持ちがずっとあります。

親の前で見せる自分は、しっかり者のどこか余所行きの自分。

大人になった今でも、無意識に親に心配かけない優等生な子供を演じています。

また、私は生命力あふれるたくましい子供でした。

共働きで忙しい両親にとってはかなり育てやすい子供だったと思います。

この忙しい両親のもとで育ったため、たくましくなったと言ったほうが正しいかもしれません。

子への執着心が薄い両親

両親はそれぞれが仕事で忙しく、世間体なども全く気にしない二人なので超放任主義でした。

両親は全く私の生活に踏み込んでこない。

私の振る舞いに対し意見を言わない。

過剰な期待をしてこない。

子供の選択に対しても全くの無介入。

こう書くと、ネグレクトのように感じますがそういうわけでもないですし、何の軋轢もないのです。

子供への執着の無さ

が周りと比べて際立っているように感じます。

それがドライな親子関係の根っこにあると思います。

たしかに育ててもらったのですが、それは生命を維持するための食事をきちんと与えてくれたことと、居住空間を与えてくれたこと、進学に必要なお金を出してくれたこと。という思い。

親の価値観を押し付けられることもなく、過大な期待もされず、周りと比べられることもなく、ありのままの存在でいさせてくれた両親でした。

これは私が二人目の子供だったことも大きいと思います。

(姉に聞いたらまた違う感想になるかもしれないので…。)

だから、感謝の念はあるのですが

一定の心の距離があって、ずっと自分の上辺の姿だけしか親には見せていないのです。

幼少期から自分の身に起きたことを報告したり、悩みを相談したりということもなく、両親と暮らしながらもその影響は受けず、自分の元々ある感性だけで成長した、という気持ちがあります。

幼少期の両親との思い出

私は男の子のようにわんぱくな子供でした。

40年以上も前とはいえ「よく心配じゃなかったよな・・・」と自分が母になって感じる出来事が多いです。

幼稚園での思い出

例えば、幼稚園は子供の足で15分ほどの距離を一人で登園していました。

登園途中で信号のない交通量多めの道路を渡るのですが、クラスの子がそこで車にはねられ入院したことを覚えています。

そんな中でも、両親の

「一人で大丈夫?・・・心配」

という素振りはなかったと思います。

心配はしていたのかもしれませんが、特に何のアクションもなくその後もいつも通りに一人で通園。

幼稚園が終わると、鍵っ子だったので一人で帰宅しカギを開けて留守番。

時には遊びに行ったり自由な時間をすごしていました。

禁止事項などもなく、何の制限もありませんでした。

親になってみて思うのは、よくあれこれ心配せず幼稚園児を野放しにできたよなぁということ。

幼稚園の頃のもう一つの思い出として、夕方まで公園で近所の子たちと遊んでいる間に、母と姉が出かけてしまったので家に入れなくなってしまったのです。

その日はカギを持っていなかったのでした。

行先は姉の習い事の教室と分かっていたのでそこに一人で向かいました。

距離的にはバスに乗って行くくらい離れた場所。

記憶を頼りにそこへ歩いて向かいました。

たどり着いた時の母は

「一人で来たの?すごいね笹子ちゃんは!」

というノリで笑顔。

今思い返すとあの距離、あの交通量・・・ふつうの母親だったらぞっとして身が縮む思いになりそうですが、母は至って平常心。

小学生での思い出

小学生の頃に年の近い、いとこの家に泊まりに行った時のこと。

朝起きると朝食がトーストだったのですが、おばさんがジャムを塗って差し出してくれました。

次に私の髪をとかし、ゴムで結んでくれました。

その行為は本当に自然でした。

この二つのやってもらったことに対して、私が感じたのは

「私がいつも自分でやってることを、いとこは毎日当たり前のように親にやってもらっているのか・・・」

という衝撃。

心地いいというより、慣れていないことへの戸惑いがありました。

中学時代の思い出

両親は学校の成績に関しても、まったく興味を示さず、テスト結果も見たり見なかったり。

そして、高校入試の合格発表の日。

早起きして一人合格発表を見に行き、「合格」であることがわかり帰宅すると、家族は食事をしていました。

「合格したよ」

と伝えると、よかったね、おめでとう!

・・・・・以上。

あっさりしています・・・笑

遊んで帰りが夜遅くなっても、両親は心配せず寝ていましたし笑。

一度母に

「なぜ、心配しないの?」

と単刀直入に聞いてみました。

帰ってきた答えは

信じてるから

とのこと。

へぇ、確かに私はグレたり変な道に行ったりしないよな。と妙に納得したのを覚えています。

こんな感じでなんとなく感情的な結びつきがあっさりした、不思議な親子関係でした。

母に叱られたことがない

そして、これも人に言うと驚かれるのですが、私は母に叱られたことがないのです。

母はいつも飄々(ひょうひょう)としていて、それは現在も変わらず。

ただ、飄々としているせいで、そこには距離感があるのですよね。

子供とはいえ立ち入れない、距離感。

飄々というバリア。

子供の時から今に至るまでずーーーっと変わらずこの距離感は続いています。

母が自分自身の気持ちを話すこともありません。

年齢すら、ずっとごまかされて教えてくれませんでした。

だから、母と感情的な深い交流が少なく、甘えるという感覚がよくわからないまま大人になりました。

いつみても飄々としている母。

とにかくその印象ばかりなのです。

一方、数秘33の父は数秘33とは思えないほど恐く、怒鳴られたことはたくさんありました。

だから

「パパ、あれ買って~おねがい!!」

とか

「パパなんて大きらい!」

みたいな甘えたセリフを一度も言ったことがありません。

父は数秘33らしくナイーブな性格で、仕事のことで忙しく、子どもに目を向けるというよりは自分自身のことで手がいっぱいの様子。

存在は認めてくれているけれど、干渉しないという印象でした。

そんな環境だったので、私は身の回りのことは全部自分でやり、日々自分で決定していくということをやり続けながら成長しました。

進学などの金銭的なことはお願いしましたが、それ以外で両親に甘えたり、相談したりすることはありませんでした。

成人してから改めて気づく甘えられなさ

この環境が少し異常だったとわかったのは大学に入ってからでした。

私を含め一人暮らしの子が多い環境の中、友達の口から「親」というフレーズがものすごく出てくることに気が付いたのです。

「親に聞いてみる」
「親が遊びに来る」
「親がお金、全部出してくれる」
「就職は地元に帰ると親と約束してる」・・・・

私は会話に自分の親が出てくることって全然ないな・・・と思ったのでした。

そういえばホームシックとも無縁でした。

高校卒業と同時に家を出たので、それ以降の親との連絡はどんどん減り、年に数回。

親自身も全く私の生活についてあれこれ聞かないし、来ることもありませんでした。

かといって関係が冷え切っているわけでもないのです。

帰省すればいつも快く迎え入れてくれます。

私が子育てをしていた時は、遠方だったこともあり親を頼ることはできませんでした。

ただ、もし近所に住んでいたとしてもこの子育ての大変さを、両親に手伝ってもらうという発想はないと感じていました。

周りを見れば子育てに実家の両親が深くかかわっている方も多く、中には両親に子供を預けて働く方もいて、私は心理的にできないなと感じていました。

言葉で説明すると

両親とは全く別家庭
両親とは全くの別人生
両親に負担をかけられない
そして、両親であってもあまりプライベートをさらしたくない

そんな感覚です。

放任で良かったのか

物事を選択する際に、両親がどういう反応をするかを気にせず生きてこれたことは幸いだったと感じます。

だからといって、私自身が自己肯定感高めに育ったわけでもないですし、マインドフルネスで生きているわけでもない。

むしろ普通の人以上に生きにくさを感じ、波乱万丈な人生です。

世間的には逆に

「過保護」「過干渉」=子供は不幸

という印象がありますが、超放任で育った私は時々思うことがあります。

親の敷いたレールで生きてきてる人は、自分の意には反していたとしても結局は食いっぱぐれない職業に就けていたり、安定を手に入れている・・・

私は資格を取得したり、安定した堅い職業に就くことなく不安定な経済状況に常に不安を感じて生きています。

そんな私とは反対に、堅い、稼げる安定した職業に就いている人の中には、ある一定数

「親の望む通りの進路」

を歩んできた方がいます。

それは、放任的な親からはもらえない、人生を生きるための一種のギフトだと思います。

生きていくうえで「仕事」「お金」は欠かせないものですし、堅い仕事、安定した仕事から得られる社会的な信用は計り知れないですから。

まとめ

今回は「親に甘えられない数秘33」というテーマで私の幼少期から現在に至るまでの親との関係について綴ってみました。

小さなころから親に甘えたり頼ったり、喜怒哀楽をありのままに表現したりができませんでした。

両親がとても忙しかったこと、子どもに対しての執着心が異常に少ないことなどから、自分のことは自分でやることが骨の髄まで染み渡っているのだと思います。

そうなると、親に頼る、甘えるという発想が湧かないので、雑草だらけの道を一人歩む波乱万丈な人生になりがちでした。

親の顔色をうかがう人生ではないことは幸せだと思う反面、過保護な親にしっかりと安定したレールを敷かれて生きることは、ある意味ギフトだと感じてしまいます。

大人になった今でも、両親にはストレートに喜怒哀楽を表現することなくしっかり者を演じ、頼ったり、相談したりすることなく「甘える」ことができないままです。

「数秘33は育った環境が厳しい」と言われますが、私の場合は毒親でもないしネグレクトでもないですが、両親との感情的な結びつきは薄く、甘えるということを存分にできないままアラフィフを迎えます。

甘えるということは、人が成長するうえで絶対に必要な経験であると思います。

そんな経験を存分にできなかったことは、ある意味厳しい環境だったと言えるのかもしれません。

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